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24年勤めた遺失物係が閉鎖。「正社員になれてよかったね」と言われた47歳の私が、最後の“使われなかった番号”を見つけた翌朝、人事部へ電話した理由
2026/08/13

忘れものの番号

第1章 番号のある世界

御厨佐和子が東京西口駅の遺失物取扱所で働き始めたのは、23歳の春だった。大学を卒業したものの就職活動がうまくいかず、鉄道会社の関連会社が募集していた半年契約の事務補助に応募したのがきっかけだった。最初に任されたのは、駅構内や車内で見つかった忘れものへ管理番号を書いた札をつけ、種類ごとに棚へ収める仕事だった。

佐和子は、その仕事を初日から気に入った。財布は財布、鍵は鍵、衣類は衣類、傘は傘であり、見つかった時間、場所、列車番号、特徴を入力すれば、一つの物に一つの番号がついた。誰のものか分からなくても、少なくとも今どこに置かれているのかだけは、番号を見れば分かった。

人間の話は、そうはいかなかった。悲しいと言いながら笑う人もいれば、怒っているのに「別に」と言う人もいるし、「何でもいい」と言ったあとで、選ばれたものに不満を言う人もいる。子どもの頃から佐和子には、そうした言葉の裏側を読むという作業が、外国語を聞くより難しかった。

小学校4年生の時、同級生の父親が亡くなったことがあった。朝の会で担任がそれを伝えると、教室の何人かが泣き、佐和子も周囲を見て泣いた方がいいのだろうと思った。しかし涙は出なかったので、休み時間に本人へ「今日、給食は食べるの?」と尋ね、あとで母親からひどく叱られた。

「そういう時は、もっと言い方があるでしょう」と母は言った。佐和子が「どういう言い方?」と聞くと、母はしばらく黙り、「相手の気持ちを考えなさい」と答えた。けれど相手の気持ちが分からないから聞いているのに、分からないものを考えろと言われても、佐和子には方法が分からなかった。

その後、彼女は少しずつ人の真似をするようになった。誰かが悲しい話をすれば眉を下げ、結婚の報告を聞けば声を少し高くして「おめでとう」と言い、赤ん坊の写真を見せられた時は「かわいい」と答えた。どの場面でどの言葉を使えば大きく間違えないか、長い時間をかけて覚えていった。

だから遺失物取扱所は楽だった。財布は「かわいそう」と言わないし、忘れられたマフラーは自分がなぜ置いていかれたのか説明を求めない。ただ特徴を確認し、分類し、番号をつけ、決められた場所に置けばよかった。

佐和子はそのまま24年間、同じ仕事を続けた。最初は半年契約だったものが1年更新になり、会社が変わり、制服が変わり、端末が3度新しくなったが、彼女自身の仕事は大きく変わらなかった。47歳になった今も、朝8時42分の電車に乗り、9時12分に西口駅へ着き、9時20分には地下1階の取扱所で制服の上着を着ていた。

同僚の中では、佐和子が一番長かった。所長も3人替わり、若い社員から「御厨さんって、この棚ができる前からいたんですよね」と冗談を言われることもあった。佐和子は冗談であることを理解して笑ったが、実際、その棚が設置された年も、その前に何が置かれていたかも覚えていた。

午前9時30分を過ぎると、各駅から集められた遺失物が台車に載せられて運ばれてくる。最も多いのは傘で、雨の日の翌朝には200本を超えることもあった。黒いビニール傘が何十本並んでも、佐和子は持ち手の傷、骨の数、シールの跡などを見て、少しずつ違いを拾っていった。

「黒い傘をなくしました」とだけ言って来る人がいると、若い係員は困った顔をした。佐和子は「持ち手は曲がっていますか。柄に文字はありますか。開いた時の直径は大きめですか」と順番に尋ね、客の答えから候補を減らした。見つけた本人が「どうして分かったんですか」と驚くたび、佐和子にはその驚きの方が不思議だった。

物には違いがある。それを見ればいいだけだった。

その日の午後、駅員が青い布袋を持ってきた。中には小学生用らしい上履きが一足入っていて、踵の部分に油性ペンで「2の3 ナカムラ」と書かれていた。拾得場所は快速電車の座席下で、発見時刻は14時17分だった。

佐和子は端末に入力し、管理札をつけようとして手を止めた。袋の底に、小さく折り畳まれた紙が入っていたからだ。遺失物の中身を必要以上に見ることは禁止されていたが、所有者を特定できる物がないか確認する範囲なら問題はなかった。

紙には子どもの字で、「あした ぜったい わすれない」と書かれていた。下には上履きの絵が描かれ、その横に赤い丸が三つ並んでいた。おそらく何度か忘れものをして、家か学校で注意されたのだろう。

佐和子は紙を元の位置へ戻した。上履きに管理番号「A-31472」をつけ、子ども用品の棚の上段に置いた。そこまで終えれば、その上履きはもう迷子ではなかった。

午後4時過ぎ、母親らしい女性と男の子が駆け込んできた。男の子は受付台の向こうに並ぶ棚を見ながら、半分泣きそうな顔をしている。女性は何度も頭を下げながら、「青い袋で、上履きが入っていて」と説明した。

佐和子は番号を確認し、棚から袋を取った。男の子は受け取った瞬間、袋を胸に抱きしめた。母親は「ほら、ちゃんとお礼言って」と促したが、男の子は黙ったままだった。

「言えないなら大丈夫です」と佐和子は言った。母親は少し困った顔をしたが、男の子は佐和子を見上げ、それから小さく「ありがとう」と言った。佐和子は「はい」と答えた。

母子が帰ったあと、隣にいた新人の相原が笑った。「御厨さん、ああいう子には優しいですよね」と言われ、佐和子は少し考えた。自分が優しかったのかどうかは分からなかったが、言いたくない時に無理に言葉を出す必要がないことだけは知っていた。

夕方5時50分、閉所前の確認をしていると、所長の倉田が全員を呼んだ。机の上には本社のロゴが入った封筒が置かれていた。佐和子はまだ入力が終わっていない赤い手袋を手に持ったまま、所長の話を聞いた。

「来年度から、遺失物業務の運用が大きく変わります。各駅での保管を減らして、郊外の統合センターへ集中させる方針です」

相原が「ここもですか?」と聞いた。

倉田は少し間を置いてから頷いた。

「西口取扱所は、来年3月で閉鎖予定です」

誰かが「ええ」と声を上げた。別の社員は「じゃあ僕らどうなるんですか」と質問した。倉田は、正社員は駅サービス部門へ配置転換、契約社員についても面談の上で別業務を紹介する予定だと説明した。

佐和子は手の中の赤い手袋を見た。片方だけだった。拾得場所は中央線ホームのベンチで、内側のタグに「M」と青い糸で刺繍されていた。

「御厨さんなら、長いですから何かしら考えてもらえますよ」

隣の相原が慰めるように言った。

佐和子は「そうですね」と答えた。

その言い方が正しいと思ったからだった。

ただ、目の前の棚に並ぶ番号を見ながら、自分にはまだ番号がついていないことだけが、妙に気になった。

第2章 戻るもの、戻らないもの

遺失物取扱所の閉鎖が知らされてからも、翌朝になれば忘れものはいつも通り届いた。傘、帽子、イヤホン、充電器、買い物袋、杖、弁当箱、学生証、定期券。人間は駅の仕組みが変わることを知らなくても、変わらず何かを置き忘れた。

佐和子はそのことに少し安心した。閉鎖まで半年以上あるのだから、今は目の前に届いた物を処理すればいい。そう考えると、前日の説明会で感じた胸のざらつきは、番号札を順番に並べるうちに薄くなった。

午前中、60代くらいの男性が焦った様子で来た。旅行用の黒いショルダーバッグを電車に置き忘れたという。

中には財布もスマートフォンも入っておらず、男性が最も気にしていたのは小さな透明ケースだった。

「何が入っていますか」と佐和子が尋ねると、男性は一瞬ためらい、「家内の指輪です」と答えた。妻は3年前に亡くなり、納骨の時にも外せずにいた結婚指輪を、最近ようやくサイズ直しに出そうと思ったのだという。佐和子は話の途中で何度か「はい」と答えながら、時刻、乗車位置、降車駅、バッグの形をメモした。

男性の声は震えていたが、佐和子はそれについて何も言わなかった。「大切なものですね」と言うべきなのだろうとは思ったものの、指輪が大切なのは男性の説明から明らかだった。同じことを言葉にする必要があるのか、佐和子には分からなかった。

端末を調べると、よく似たバッグが隣駅で届けられていた。確認の電話を入れ、特徴が一致したので男性に伝えると、彼は大きく息を吐いた。それから受付台に両手をつき、「よかった」と何度も繰り返した。

「隣駅で保管されています。17時までなら受け取れます」

佐和子が地図を出して説明すると、男性は「本当にありがとうございます」と深く頭を下げた。最後に「あなた、こういう仕事ずっとしてるの?」と聞かれたので、佐和子は「24年目です」と答えた。

「すごいね。人の大事なものを戻す仕事なんだ」

男性はそう言って帰った。

佐和子はその言葉を聞いたあと、しばらく考えた。自分は人の大事なものを戻しているつもりはなかった。規定に沿って探し、見つかった物の保管場所を伝えただけだった。

それでも夕方、倉田所長から「さっきのお客さん、本社にお礼の電話入れたみたいですよ」と言われた時、少しだけ嬉しいと思った。何が嬉しいのか説明することはできなかったが、その感覚も無理に名前をつけなければ、しばらく残しておける気がした。

昼休み、休憩室では閉鎖後の話になった。相原はまだ26歳で、正社員登用試験を受けるつもりだという。50代の契約社員である藤岡は「俺はこれを機に辞めるかな」と笑い、妻の実家の仕事を手伝うつもりだと話した。

「御厨さんは?」

突然聞かれ、佐和子は箸を止めた。

「まだ面談していません」

「でも駅の案内とか向いてそうですよ。忘れもの詳しいし」

相原が言った。

佐和子は、駅の案内窓口に立っている自分を想像した。電車の遅延で怒る人、乗り換えに迷う人、観光客、酔った人、急いでいる人。そこには番号のついていない質問が次々に来る。

「向いているかは分かりません」

そう答えると、藤岡が「御厨さん謙虚だからなあ」と笑った。佐和子は謙虚という言葉が自分に当てはまるのか考えたが、よく分からなかった。

その夜、妹の美奈子から電話が来た。母の誕生日が近いので、日曜日に三人で食事をしようという連絡だった。佐和子は母と同居しておらず、実家を出てから20年以上、駅から20分ほどの古い賃貸マンションで一人暮らしをしている。

母の芳江は74歳で、今も同じ家に一人で暮らしていた。父は8年前に亡くなったが、母は近所に友達が多く、週に2度は体操教室へ行き、佐和子より予定が多いくらいだった。

妹の美奈子は42歳で既婚、大学生になる娘の杏がいる。

「お姉ちゃん、仕事のところ閉まるんだって?」

美奈子は電話の途中で言った。

「どうして知ってるの」

「お母さんから聞いた。お姉ちゃんがこの前話したんでしょ」

佐和子は思い出した。閉鎖の通知があった翌日、母から電話が来て、何となく話したのだった。

「まだ半年以上あります」

「そういう問題じゃないでしょう。次どうするの?」

「会社が紹介すると言っています」

「ちゃんとしたところ?」

佐和子はその言葉が引っかかった。

「ちゃんとした、とは?」

「だから、今度こそ長く働けるところ。お姉ちゃんもう47なんだから」

今の仕事も24年続けていると言おうとしたが、美奈子は続けた。「契約じゃなくて社員とか、せめて昼間の普通の事務とか。今まで運がよかったけど、これから一人なんだから安定してた方がいいよ」と言う。

「今も昼間です」

「そういう意味じゃなくて」

母と同じ言葉だった。

佐和子は、世の中には「そういう意味じゃない」という言葉が多すぎると思った。言った言葉の意味ではないなら、最初から別の言葉を使えばいいのに、と子どもの頃から何度も思っていた。

日曜日、三人で駅前の和食店に集まった。母は誕生日だからと紫色のブラウスを着ており、美奈子は花束を持ってきた。杏は授業のレポートがあると言って来なかった。

料理が運ばれると、母は嬉しそうに写真を撮った。佐和子も同じようにスマートフォンを出そうとしてやめた。

食べ終わった料理の写真をあとで見る理由が分からなかったからだ。

「佐和子、最近どうなの」

母が聞いた。

「何が?」

「仕事よ」

「まだ閉まりません」

美奈子が横からため息をついた。

「お姉ちゃん、閉まる日じゃなくて、そのあとを聞いてるの」

「面談があります」

「だから、その面談でちゃんと希望言いなよ」

佐和子は味噌汁の蓋を取った。中には三つ葉と豆腐が入っていた。

「何を希望すればいいの?」

美奈子は箸を置いた。

「普通に考えて、社員になれる仕事でしょう」

「私は社員になりたいと言ったことはありません」

「じゃあ、ずっと契約でいいの?」

「困っていません」

「今は、でしょ」

美奈子の声が少し強くなった。

母が「まあまあ」と間に入った。「美奈子は心配してるだけよ。佐和子だって一人なんだし、歳を取った時にちゃんとしてた方が安心でしょう」と言う。

一人。

その言葉も、佐和子は昔からよく聞いた。

結婚しないの。

いい人いないの。

ずっと一人で大丈夫。

40歳を過ぎると、聞く人の口調は質問より確認に近くなった。まるで一人という状態が、時間が経つほど修理の必要な不具合になるようだった。

「私は大丈夫です」

佐和子が言うと、美奈子は困ったように笑った。

「お姉ちゃんの大丈夫って、本当に分からないんだよね」

佐和子は味噌汁を飲んだ。

熱かった。

母の誕生日だから、ここで言い返す場面ではないことだけは分かっていた。

帰宅すると、玄関に宅配便の不在票が落ちていた。配達予定の荷物は洗剤だった。

佐和子は不在票に書かれた12桁の番号を見ながら、少し安心した。

番号があれば、次にすることが分かる。

再配達の時間を選ぶ。

電話する。

受け取る。

世の中の全部がそうならいいのにと思った。

第3章 正しい席

閉鎖に伴う個人面談は、10月の終わりに行われた。佐和子の前に座ったのは倉田所長と、本社人事部から来た40代の男性だった。机には佐和子の勤務記録や評価表が並び、その一番上には「勤続24年」と印字されていた。

「御厨さんは勤務態度も安定していますし、遺失物の知識も非常に深いです」

人事担当の男性は、評価表を見ながら言った。「そこで来年度以降なんですが、西口駅の総合案内カウンターへの異動を検討しています。契約形態も見直して、限定正社員への登用試験を受けていただくことが可能です」と続けた。

佐和子は「総合案内」と書かれた資料を読んだ。業務内容には、乗換案内、周辺施設案内、遅延時の旅客対応、外国人利用客へのサポートなどが書かれている。写真には笑顔の女性職員が二人写っていた。

「遺失物業務はありませんか」

佐和子が聞くと、人事担当者は少し意外そうな顔をした。

「統合センターは郊外になりますし、基本的に新規委託会社の運営です。今の会社から配置できる人数はかなり限られます」

「私は応募できますか」

「委託先へ、ですか?」

「はい」

男性は倉田と目を合わせた。

「条件は今より下がる可能性があります。

通勤も片道1時間半以上になりますし、御厨さんの経験なら接客部門で十分活かせると思いますよ」

活かせる。

佐和子はその言葉について考えた。傘や財布を探すために使っていた知識を、乗換案内へどう活かすのだろう。もしかすると、長く勤めた人間は次の場所でも同じように役立つべきだという意味なのかもしれなかった。

「総合案内の研修を、一度受けてみませんか」

倉田が穏やかに言った。

「それから決めてもいいと思います」

佐和子は頷いた。

試してから決めることは合理的だった。

翌月から、週に2日だけ総合案内カウンターで研修することになった。制服は同じ会社のものだったが、スカーフの色が違い、胸元には大きめの名札がついた。鏡の前で先輩職員から「もう少し口角を上げてみましょう」と言われ、佐和子は言われた通りにした。

「自然に笑う感じです」

自然にと言われると難しかった。

意識して口角を上げれば、それは自然ではないように思えた。しかし隣の職員の顔を真似すると、研修担当者は「そうそう、いいですね」と言った。

最初の客は70代くらいの女性だった。「新宿文化センターに行きたい」と言うので、佐和子は地図を開き、出口番号と徒歩経路を説明した。女性はすぐ理解し、「ありがとう」と言って去った。

これは簡単だった。

目的地がある。

経路がある。

答えがある。

しかし次に来た男性は、電車の運休について怒っていた。駅員のせいではないと分かっているはずなのに、「どうしてもっと早く知らせないんだ」「会議に間に合わない」と何度も声を荒らげた。

佐和子は研修で覚えた通り、「ご不便をおかけして申し訳ございません」と言った。

男性は「謝れば済むと思ってるのか」と返した。

そこで佐和子は困った。

謝ったのに、謝ることが間違いだったらしい。

「では、謝らない方がよろしいですか」

思わず聞いた。

男性の顔が止まった。

隣にいた先輩職員がすぐ前へ出て、「お急ぎのところ大変申し訳ございません。現在、振替輸送をご案内しております」と引き取った。男性が去ったあと、佐和子は裏へ呼ばれた。

「御厨さん、さっきの返しはちょっと危ないです」

「申し訳ございません」

「今のはいいんですけど、お客様の言葉を文字通り返さない方がいい場合もあります」

「でも、謝れば済むのかと聞かれたので」

先輩は少し笑った。

「答えを求めてるわけじゃないんです」

まただった。

質問なのに答えを求めていない。

佐和子は小さなメモ帳を買った。

《謝れば済むと思っているのか→答えない。再度謝罪+代替案》

《何とかしろ→実際に何とかできなくても、まず共感》

《もういい→本当に終了の場合と、引き止めてほしい場合がある》

休憩中、そうした例を書きためた。

少しずつ、対応できる場面は増えた。子ども連れにはしゃがんで話す、年配客には少しゆっくり説明する、怒っている人には最初に「ご不便をおかけしております」と言う。正解がないように見えても、頻出する型はあることが分かった。

研修担当者からは評価された。

「御厨さん、覚えるの早いですね」

褒められれば「ありがとうございます」と言う。

これも覚えていた。

遺失物取扱所へ戻る日は、制服の上着を着た瞬間に肩が軽くなった。受付台の裏に入り、未処理の品物を見ると、自分の呼吸が深くなるのが分かった。濡れた折り畳み傘、黒い手袋、文庫本、イヤホンケース。それぞれ確認すべき項目があり、順番に処理すれば終わる。

ある日の夕方、相原が「御厨さん、案内所どうですか」と聞いた。

「覚えることが多いです」

「でも正社員になれるならいいじゃないですか」

「いい、とは?」

「安定するし、給料も上がるし。普通に考えたらそっちでしょう」

また「普通」が出てきた。

佐和子は最近、その言葉が出るたびに心の中で印をつけるようになっていた。

普通に考えたら。

普通は。

普通なら。

その普通を決めている場所がどこにあるのか、一度見てみたいと思った。

12月に入った頃、美奈子から連絡が来た。母の家で鍋をするから来ないかという誘いだった。佐和子が日曜の予定を確認していると、美奈子は最後に「あ、杏の大学の先生だった人も来るから」と付け加えた。

「どうして先生が来るの」

「先生じゃなくて、元先生。今は出版社で働いてる人」

「それがどうして母の家に来るの」

美奈子は少し間を置いた。

「お姉ちゃんに会ってもらおうかなと思って」

佐和子は電話を耳から少し離した。

「何のために?」

「友達になればいいじゃない。49歳で独身だって」

「私は友達を募集していません」

「最初から結婚しろなんて言ってないでしょ」

「私は結婚と言っていません」

「そういう言い方、本当に疲れる」

美奈子の声が強くなった。

二人とも黙った。

佐和子は自分が何か間違えたことだけは分かった。

「行った方がいいですか」

しばらくして聞くと、美奈子はため息をついた。

「来てよ。お母さんも楽しみにしてるから」

日曜日、母の家には高瀬修一という男がいた。49歳で、以前は高校の国語教師をしていたが、数年前に出版社の営業職へ転職したという。背は高くなかったが清潔な服を着ており、佐和子が苦手とする、必要以上に明るい人ではなかった。

高瀬は「遺失物係って面白そうですね」と言った。

佐和子は少し驚いた。

たいていの人は「大変そうですね」か「そんな仕事があるんですね」と言う。

「面白いです」

佐和子が答えると、高瀬は笑った。

「何が一番多いんですか?」

「傘です」

「やっぱり」

「ただし雨の日ではなく、雨が止んだ日の方が増えます」

「へえ」

その「へえ」は、会話を続けるためだけではなく、本当に興味を持っているように聞こえた。

食事の間、高瀬は何度か佐和子へ質問した。閉鎖される話をすると、「それは寂しいですね」と言った。佐和子は寂しいかどうかをまだ決めていなかったので、「まだ閉まっていません」と答えた。

高瀬は少し笑った。

「確かに。まだ終わってないのに、先に寂しがる必要もないですね」

佐和子は、その答えが気に入った。

帰り際、高瀬から「また話しませんか」と言われた。

佐和子は美奈子の方を見なかった。

「話す内容があるなら」

そう答えた。

高瀬は少し考えてから、「じゃあ、忘れものの話を聞きたいです」と言った。

その答えも、悪くなかった。

第4章 誰かの形

高瀬とは、その後月に2、3度会うようになった。最初は美奈子を通じて連絡していたが、やがて直接メッセージを送るようになった。映画を見ることも食事をすることもあったが、佐和子にはそれを交際と呼ぶべきなのか判断できなかった。

高瀬は会話の沈黙を嫌わない人だった。喫茶店で二人とも10分ほど何も話さず、それぞれ本を読んでいても平気だった。佐和子が「この時間は何をする時間ですか」と聞くと、「何もしない時間でもいいんじゃないですか」と笑った。

それは楽だった。

美奈子は明らかに期待していた。「高瀬さんどう?」と何度も聞かれ、「穏やかです」と答えると、「そうじゃなくて、好きとか」と言われた。佐和子には、高瀬と会うことは嫌ではなく、次に会う予定があると少し安心することは分かっていたが、それを「好き」と呼ぶ必要があるのかは分からなかった。

「嫌じゃないなら十分じゃない?」

母はそう言った。

佐和子は十分という基準について考えた。

一方、職場では閉鎖準備が始まっていた。古い保管棚には赤い廃棄予定シールが貼られ、長期間使われていなかった備品が処分された。過去10年分の紙資料も電子化され、段ボール箱が毎週少しずつ減っていった。

佐和子はその変化を見ながら、初めて働き始めた頃のことを思い出した。

当時は端末ではなく紙台帳で、管理番号も手書きだった。傘の棚は木製で、夏になると地下室特有の湿気で少し膨らみ、引き戸が閉まりにくくなった。

24年という時間を、佐和子は長いと考えたことがなかった。毎日一日ずつ来ただけだからだ。しかし棚が取り外され、壁に残った跡を見ると、そこに何年分もの時間が積み重なっていたことが分かった。

1月、人事部から正式な通知が来た。限定正社員登用試験を受ける意思があるか、月末までに回答してほしいという。合格すれば4月から総合案内部門へ正式配属され、給与は今より月に3万4千円ほど上がる。

佐和子は紙を家へ持ち帰った。

テーブルの上に置き、30分ほど眺めた。

数字だけなら、受けた方がいい。

通勤時間は変わらない。

社会保険も今より安定する。

賞与も少額ながら出る。

退職金制度もある。

翌日、高瀬に相談した。

「受けた方がいいと思いますか」

高瀬はすぐ答えなかった。

「佐和子さんは、どうしたいんですか」

「分からないから聞いています」

「じゃあ、条件だけなら受けた方がいいと思います」

それは佐和子にも分かっていた。

「案内の仕事、嫌ですか?」

「嫌ではありません」

「好きですか?」

質問の仕方が難しかった。

「好きかどうか判断するほど、長くやっていません」

高瀬はコーヒーを一口飲んだ。

「今の仕事は?」

「好きです」

その答えはすぐ出た。

高瀬は少し笑った。

「じゃあ、本当は分かってるんじゃないですか」

佐和子は首を振った。

「好きな仕事を選ぶことと、正しい仕事を選ぶことは同じですか」

高瀬の表情が少し変わった。

「正しいって、誰にとって?」

その質問は、佐和子には答えやすかった。

「家族と会社と、たぶん社会です」

高瀬はしばらく黙った。

「それなら、全部同じ答えにはならないと思います」

佐和子はその言葉を覚えておいた。

しかし家族の答えは一致していた。

母も美奈子も、試験を受けるべきだと言った。

「今さら迷うところじゃないでしょ」と美奈子は言った。「社員になれるんだよ。しかも駅の案内なら人にも説明しやすいし」と続けた。

「今の仕事は説明しにくいですか」

「そういう意味じゃなくて」

まただった。

佐和子は少し疲れた。

母はもっと穏やかだった。「佐和子、私はあなたが好きなことをすればいいと思ってる。でも、お母さんもいつまでも元気じゃないし、一人で暮らすなら収入が安定してる方が安心よ」と言った。

この言葉には反論しにくかった。

母が心配していることは分かった。

佐和子は登用試験に申し込んだ。

筆記試験と面接があり、3月初めに合格通知が届いた。

美奈子は電話で喜んだ。

母も「よかったね」と言った。

高瀬は「おめでとう」と言ったあと、「嬉しいですか」と聞いた。

佐和子は通知書を見た。

「たぶん」

と答えた。

本当は、合格したことより、これで周囲の人が安心することの方に安堵していた。

3月31日、遺失物取扱所の最終日になった。

朝からいつも通り忘れものが届いた。

最後の日だからといって、人は忘れなくなるわけではない。

傘82本。

財布11個。

スマートフォン8台。

鍵17点。

衣類29点。

その他43点。

佐和子は一つずつ処理した。

午後になると、統合センターへ送るためのトラックが来た。棚に残っている品物は箱へ詰められ、管理番号ごとに封をされた。長く見慣れた棚が、少しずつ空になっていった。

17時40分。

最後に受付へ来たのは、中学生くらいの女の子だった。

「白いマフラー、届いてませんか」

佐和子は端末を調べた。

該当する物が一つあった。

特徴を確認すると一致した。

女の子はマフラーを受け取り、すぐ首に巻いた。

「おばあちゃんが編んでくれたやつなんです」

そう言って笑った。

「見つかってよかったです」

佐和子は答えた。

その言葉は、研修で覚えたものではなかった。

自然に出た。

女の子が帰ったあと、佐和子は最後の受付記録を閉じた。

番号は「A-48796」。

24年間で自分が扱った最後の品物の番号になった。

倉田が「御厨さん、本当にお疲れさまでした」と言った。相原や藤岡も挨拶をし、小さな花束まで用意されていた。

佐和子は、こういう時に泣く人がいることを知っていた。

自分は泣かないと思っていた。

けれど、壁から「遺失物取扱所」と書かれたプレートが外された瞬間、胸の奥が強く縮んだ。

涙ではなかった。

痛みに近かった。

「御厨さん、大丈夫ですか」

相原が聞いた。

佐和子は「大丈夫です」と答えた。

それ以外の言葉を知らなかった。

帰宅してから花束を花瓶に入れた。

制服は明日から新しいものになる。

社員証も変わる。

給料も上がる。

高瀬から《24年間、お疲れさまでした》とメッセージが来ていた。

佐和子は返信しようとして、手を止めた。

《ありがとうございます》と入力した。

送信した。

それから部屋の灯りを消した。

暗い部屋の中で、自分がどの棚へ移されたのか、まだ分からなかった。

第5章 正社員

4月1日、佐和子は西口駅総合案内カウンターの限定正社員として働き始めた。新しい社員証には契約終了日の記載がなく、胸元の名札の下には小さく「Station Service」と英語が入っていた。美奈子が聞けば喜びそうな、説明しやすい仕事になった。

業務そのものは、研修で経験した通りだった。乗換案内、駅周辺の案内、遅延時の対応、落とし物の一次受付、外国人旅行者への案内。佐和子は覚えた定型文を使い、分からない質問は端末で調べ、少しずつ仕事をこなした。

同僚からの評価も悪くなかった。

「御厨さん、本当にミス少ないですよね」

「説明も正確だし」

そう言われた。

正確であることは嬉しかった。

ただ、一日の終わりになると、以前とは比べものにならないほど疲れていた。大声を出したわけでも重い荷物を運んだわけでもないのに、帰りの電車では座席に座った瞬間、何も考えられなくなった。

客は一人ずつ違った。

同じ質問でも、急いでいる人、怒っている人、寂しそうな人、話をしたいだけの人がいる。

「トイレどこ?」と聞かれた時は場所を教えればいい。

「なんでこんなに遠いの?」と続けられると、何を答えればいいか分からない。

「この駅、不便ね」と言われれば、「ご不便をおかけします」と答える。

しかし「あなたもそう思うでしょう」と言われると困る。

佐和子は再びメモを増やした。

《本当に?→相手が同意を求めている場合がある》

《どう思う?→意見より共感が必要な場合がある》

《疲れた→休憩場所の案内ではなく雑談の場合あり》

一ヶ月もすると、対応は上手くなった。

佐和子は人の表情を以前より細かく見るようになった。

眉が寄っている。

口元が下がっている。

声が高い。

同じ言葉を繰り返している。

それらを組み合わせて、返す言葉を選んだ。

遺失物の特徴を見分ける作業と少し似ていると思えば、続けられた。

それでも違いはあった。

傘は突然泣かない。

財布は説明の途中で怒らない。

手袋は「あなたじゃ話にならない」と言わない。

佐和子は毎日、何十人もの感情を一度受け取り、適切な形へ変えて返す必要があった。

5月、高瀬から「最近疲れてませんか」と言われた。

二人は駅から少し離れた蕎麦屋にいた。

「仕事なので」

「前より口数が減りました」

「そうですか」

「会うの、負担になってません?」

佐和子は少し考えた。

負担ではない。

しかし高瀬と会う前に、何を話すべきか考えるようになっていた。

以前は忘れものの話をすればよかった。

今はその仕事がない。

「話す内容が減りました」

正直に言うと、高瀬は苦笑した。

「仕事の話じゃなくてもいいんですよ」

「何の話をしますか」

「何でも」

佐和子は困った。

「何でも」が一番難しい。

高瀬はしばらく黙ったあと、「今度、うちに来ませんか」と言った。

佐和子は顔を上げた。

「何のために?」

「夕飯でも作ろうかと思って」

「私が作るんですか」

「違います。僕が作ります」

「それなら行けます」

高瀬は笑った。

その週末、高瀬の部屋へ行った。二人暮らしを想定したような広めの2LDKで、棚には本が多く、台所はきれいに片づいていた。高瀬は鶏肉の煮込みを作り、佐和子は言われた通りサラダ用の野菜を切った。

食後、高瀬は少し緊張した顔で言った。

「佐和子さん、こういうの嫌じゃないですか」

「料理ですか」

「そうじゃなくて」

またその言葉だった。

「一緒に暮らすとか」

佐和子は包丁を拭いていた手を止めた。

「なぜですか」

「なぜって……僕ももう50になりますし、佐和子さんも一人でしょう。無理に結婚じゃなくても、生活を一緒にするのはどうかなと思って」

生活を一緒にする。

佐和子は部屋を見た。

本棚。

食卓。

二つの椅子。

洗面所には歯ブラシを置く場所がありそうだった。

「私は何をすればいいですか」

高瀬が少し笑った。

「仕事じゃないんだから、何もしなくていいんですよ」

「でも、一緒に暮らすなら役割がありますよね」

「その辺は二人で決めればいい」

決める。

それならできるかもしれない。

「曜日ごとに家事を分けますか」

高瀬はまた笑った。

「佐和子さんらしいですね」

その言い方が褒め言葉なのか分からなかった。

帰宅後、美奈子に話すと、電話の向こうで大きな声を上げた。

「よかったじゃん!」

「まだ何も決めてません」

「でも高瀬さんから言ってくれたんでしょ。お姉ちゃん、仕事も社員になったし、なんか一気にちゃんとしてきたね」

佐和子は黙った。

ちゃんとしてきた。

以前は、ちゃんとしていなかったらしい。

その夜、洗面所で歯を磨きながら鏡を見た。

正社員。

恋人らしい人。

一人暮らしをやめる可能性。

美奈子が思う普通の47歳に、自分は少しずつ近づいているのだろう。

鏡の中の自分は、特に変わって見えなかった。

ただ、翌朝着る制服を見た時、遺失物取扱所で使っていた古い紺色の上着が、クローゼットの一番奥に残っていることに気づいた。

会社へ返却する必要のない旧型制服だった。

佐和子は扉を閉めた。

その日は見なかったことにした。

第6章 空白の時間

夏になる頃、佐和子は高瀬の部屋へ週末だけ泊まるようになった。金曜の仕事が終わるとそのまま向かい、日曜日の夕方に自宅へ戻る。高瀬は「練習みたいなものですね」と言ったが、佐和子には何の練習なのかよく分からなかった。

生活の規則を作れば、それほど難しくなかった。土曜の朝は佐和子が洗濯し、高瀬が朝食を作る。買い物は午後3時、夕食は7時、日曜の昼は外食にすることが多かった。

問題は、その間にできる空白だった。

午後1時。

高瀬が「今日は何する?」と聞く。

佐和子は予定表を見る。

何もない。

「何もしなくてもいいですよ」

高瀬はそう言うが、何もしないために一緒にいる意味が分からなかった。

高瀬はソファで本を読み、途中で眠る。

佐和子は窓の外を見る。

近所の人が犬を散歩させている。

冷蔵庫の音がする。

時計の秒針が進む。

一人暮らしの部屋なら、何もすることがなければ掃除をしたり、電車で一駅先まで歩いたりできた。しかし他人の部屋では、勝手に引き出しを整理するわけにもいかない。

「退屈ですか」

ある日、高瀬に聞かれた。

「少し」

佐和子は答えた。

「じゃあ映画でも見ます?」

「何を見るか決めてください」

「佐和子さんも選んでいいんですよ」

「見たいものがありません」

高瀬はリモコンを置いた。

「僕といるの、楽しくないですか」

佐和子はすぐに否定しようとして、言葉が止まった。

楽しいという感覚が何なのか、考えてしまったからだ。

「嫌ではありません」

高瀬の表情が少し固くなった。

その顔を見て、答えを間違えたと分かった。

「すみません」

「謝らなくていいです」

「怒っていますか」

「怒ってないです」

声は少し低かった。

佐和子はメモしたくなった。

《怒ってない→怒っている場合あり》

しかし高瀬の前でメモ帳を出すのはやめた。

職場でも疲労が増えていた。夏休みに入り、駅には旅行客や子ども連れが増えた。台風で電車が止まった日には、カウンターの前に50人近い列ができた。

午後4時過ぎ、30代くらいの女性が泣きながら来た。子どもとはぐれたという。

佐和子はすぐに名前、年齢、服装、最後に見た場所を聞いた。

「そんなことより早く探してください!」

女性が叫んだ。

佐和子は一瞬止まった。

情報がなければ探せない。

「お子様の服装を教えていただかないと」

「黄色! 黄色いTシャツ! もういいから早く!」

隣の職員が警備へ連絡した。

数分後、子どもは別の改札で保護された。

母親は走っていった。

佐和子は受付台に残った。

手が震えていた。

子どもが見つかったから安心したのではない。

自分が途中で動けなくなったことが怖かった。

以前の遺失物取扱所なら、子どもの落とした靴を探すことはできた。

人そのものを失くした母親には、どう接すればいいのか分からなかった。

その夜、帰宅すると電気もつけずに床へ座った。

30分ほどそのままだった。

食事をする気になれなかった。

冷蔵庫には作り置きの煮物がある。

温めればいい。

しかし立つことができなかった。

翌朝、初めて寝坊した。

8時42分の電車に間に合わず、一本遅い電車に乗った。

24年間、一度も寝坊で遅刻したことはなかった。

駅へ着いた時、胸が強く鳴っていた。

遅刻は3分だけだった。

上司は「珍しいですね」と笑い、特に問題にはしなかった。

それなのに佐和子は一日中落ち着かなかった。

帰宅後、時計を5分進めた。

さらにスマートフォンにアラームを三つ設定した。

翌朝は6時前に目が覚めた。

眠れなかっただけだった。

9月、美奈子から母が体調を崩したと連絡が来た。大きな病気ではなく、夏の疲れと軽い脱水だと言われたが、念のため数日間入院することになった。

佐和子は仕事帰りに病院へ向かった。

母はベッドの上で「大げさなのよ」と笑っていた。顔色も悪くなく、佐和子は少し安心した。美奈子は昼間に来ていたらしく、冷蔵庫には果物やゼリーが並んでいた。

「仕事どう?」

母が聞いた。

「忙しいです」

「社員になってよかった?」

佐和子は少し黙った。

「給料は上がりました」

母が笑った。

「そうじゃなくて」

佐和子も少し笑った。

今日はその言葉に腹が立たなかった。

「分かりません」

正直に答えた。

母は佐和子の顔をしばらく見た。

「昔から、あんたは分からないってちゃんと言う子だったね」

「怒られました」

「私がね」

「はい」

母は少し申し訳なさそうに笑った。

「お母さん、あんたが変な子だと思われるの怖かったのよ」

佐和子はベッド脇の椅子に座ったまま黙った。

「小さい頃から、言わなくていいこと言うし、みんなが泣いてても平気な顔してるし。だから普通にしなさいって、ずっと言ってた」

「覚えています」

「今考えると、あれも余計だったかもね」

母は窓の方を見た。

夕方の空が薄く赤くなっていた。

「でも親って、子どもがみんなと同じ席に座ってると安心するのよ」

佐和子はその言葉を聞いた。

同じ席。

今、自分はそこに座っているのだろうか。

正社員になった。

高瀬という相手がいる。

母も妹も安心している。

それなのに、その席の椅子は少し高さが合わず、毎日足が床につかないような感じがしていた。

「違う席に座ったら駄目ですか」

佐和子が聞いた。

母は少し考えた。

「空いてるなら、いいんじゃない」

二人とも笑った。

しかし家へ帰ったあとも、佐和子はその言葉を何度も思い出した。

空いている席。

自分には、まだそこが見えていなかった。

第7章 番号のない傘

10月の雨の日、駅の案内カウンター前に一本の傘が置き忘れられていた。透明なビニール傘で、持ち手に赤いテープが一周だけ巻かれている。清掃員が「落とし物です」と持ってきたので、佐和子は一時受付の手続きをした。

今の案内所では、遺失物を長く保管しない。拾得時刻と場所、特徴を入力したあと、まとめて統合センターへ送る。佐和子は久しぶりに管理番号を印刷し、傘の持ち手へ札をつけた。

「B-10631」。

その数字を見た瞬間、胸の中で何かが静かになった。

佐和子は傘を専用ラックへ置いた。

数時間後、20代くらいの男性が「ビニール傘を忘れました」と来た。佐和子は赤いテープの有無を聞いたが、男性は「たぶん何もない」と答えた。別の傘だった。

夕方には女性が一人来た。

その人も違った。

閉店前、赤いテープの傘はまだ残っていた。

翌朝には統合センターへ送られた。

それだけのことだった。

しかし佐和子は、その傘が気になった。

誰のものなのか。

なぜ赤いテープを巻いていたのか。

持ち主は探しているのか。

統合センターの検索システムを開けば、今どこに保管されているか確認できる。

業務上必要ではなかったが、佐和子は昼休みに番号を入力した。

《郊外統合保管センター 第7ラック 傘類》

ちゃんと場所があった。

それを見て安心した。

数日後、今度は茶色い革の手帳が届いた。これも一次受付だけして送る予定だった。内側には名刺が一枚入り、持ち主を特定できたので連絡対象になった。

佐和子は電話をかけた。

「東京西口駅で手帳が拾得されています」

相手の男性は驚いたあと、「ああ、なくしたのも気づいてなかった」と笑った。

「必要ありませんか」

「もう来年の手帳買ったんで、処分してもらっていいです」

佐和子は一瞬返事が遅れた。

「中にメモがあります」

「大したこと書いてないです」

「名刺もあります」

「それも捨ててください」

「分かりました」

電話を切った。

手帳は所有者放棄として処理された。

佐和子は処分箱へ入れた。

その時、強い違和感があった。

物は持ち主に戻るものだと思っていたわけではない。24年間、引き取りに来ない物を何万点も見てきたし、期限が来れば処分されることも知っていた。それでも、自分で「いらない」と言われた瞬間、手帳が急に何の行き先もないものになったように見えた。

その夜、高瀬の家へ行く予定だったが、佐和子は断った。

《今日は疲れているので自宅へ帰ります》

高瀬から《大丈夫ですか》と返事が来た。

佐和子は《大丈夫です》と打った。

送信する前に消した。

《分かりません》

と書き直した。

高瀬から返事が来るまで少し時間がかかった。

《分からないなら、今日は休んでください》

佐和子はスマートフォンを置いた。

クローゼットを開けた。

一番奥に、旧遺失物取扱所の紺色の制服が掛かっている。

佐和子は取り出した。

ポケットを探ると、小さな紙片が出てきた。

最後の日に使った管理番号札の予備だった。

「A-48797」。

実際には使われなかった番号。

最後のマフラーは48796だったから、その次として印刷され、余ったままポケットに残ったのだろう。

佐和子は番号札を机に置いた。

翌日、人事部へ電話した。

統合センターで働く委託会社について教えてほしいと頼んだ。

担当者は驚いた。

「転職を考えているんですか」

「まだ分かりません」

「御厨さん、今は正社員ですよ」

「はい」

「統合センターは時給制ですし、通勤も大変ですよ。今より条件かなり下がります」

「分かっています」

「だったら、なぜ」

佐和子は答えようとした。

好きだから。

落ち着くから。

自分に向いているから。

どれも本当だった。

しかしそれだけでは足りない気がした。

「そこに行った時、自分がどうなるか確認したいです」

担当者はしばらく黙った。

結局、見学だけなら可能だと言われた。

土曜日。

佐和子は電車を3本乗り継ぎ、郊外の工業団地にある統合センターへ向かった。駅からさらにバスで15分かかった。

建物は巨大な倉庫だった。

中には、西口駅の何倍もの棚が並んでいた。

傘。

衣類。

袋。

電子機器。

書籍。

鍵。

一日数千点が集まるという。

見学担当の女性が「単純作業ですよ」と説明した。

「端末に従って入れて、照会が来たら探す。昔みたいにお客さんと直接話すことはほとんどないです」

佐和子は棚を見た。

番号が延々と続いている。

一つ一つに場所がある。

「少し、触ってもいいですか」

女性は笑った。

「もちろん。見学用の品物なら」

佐和子は渡された黒い折り畳み傘を手に取った。

ラベルを見る。

持ち手の傷。

留め具の色。

重さ。

それだけで、呼吸がゆっくりになった。

自分の肩が下がるのが分かった。

「御厨さん?」

女性が呼んだ。

佐和子は顔を上げた。

「すみません」

「いえ。ただ、すごく嬉しそうな顔するなと思って」

佐和子は驚いた。

「私、笑っていますか」

「少し」

手で口元に触れた。

意識して上げたわけではなかった。

その帰り、電車の窓に自分の顔が映った。

案内所で鏡を見ながら作った笑顔とは違っていた。

佐和子は初めて、それに気づいた。

第8章 戻らなくていい

統合センターを見学したことを美奈子へ話すと、予想通り反対された。「お姉ちゃん、せっかく社員になったのに何考えてるの」と言われ、佐和子は電話を耳から少し離した。声が大きい時、美奈子は同じ話を何度も繰り返す。

「給料下がるんでしょ。通勤だって遠いし、今の方が絶対いいじゃん」

「条件は今の方がいいです」

「じゃあ何で?」

「統合センターの方が働きたいです」

「子どもじゃないんだから、働きたいだけで決められないでしょ」

佐和子はその言葉を考えた。

「大人は何で決めますか」

「生活でしょ」

「生活は仕事を含みます」

「そういう屁理屈やめてよ」

佐和子は黙った。

昔なら、ここで自分が間違っているのだと思った。

今は、少し違った。

美奈子の言っていることも正しい。

自分の考えていることも、おそらく間違いではない。

同時に存在していいのかもしれない。

「美奈子は反対なんですね」

「当たり前でしょ」

「分かりました」

「分かったなら」

「反対していることが分かりました」

電話の向こうが静かになった。

「お姉ちゃん、本当に変わったね」

美奈子は呆れたように言った。

佐和子は「そうかもしれません」と答えた。

高瀬にも話した。

二人は初めて会った時の喫茶店にいた。

「辞めるんですか」

「まだ決めていません」

「でも行きたいんでしょう」

「はい」

高瀬はしばらくコーヒーを見ていた。

「一緒に暮らす話は、どうしますか」

佐和子はその質問が来ると思っていた。

通勤場所が変われば、高瀬の家からはさらに遠くなる。

生活時間も変わる。

「高瀬さんは、一緒に暮らしたいですか」

「僕はそう思ってます」

「なぜですか」

高瀬は少し笑った。

「好きだからですよ」

初めてはっきり言われた。

佐和子は胸の中を探した。

嬉しい。

たぶん嬉しい。

でも、その言葉を同じ形で返せるかは分からない。

「私は、高瀬さんと会うのは好きです」

「はい」

「でも一緒に暮らしたいかは分かりません」

高瀬は黙った。

佐和子は続けた。

「週末に泊まると、午後に何をしていいか分からなくなります。高瀬さんの部屋にいると、自分の物をどこへ置いていいか考えます。洗濯の順番や食事の時間を決めれば安心しますが、決めない時間が多いと疲れます」

「それ、僕といるから疲れるってことですか」

「たぶん、一緒に暮らすことが疲れるんだと思います」

高瀬は窓の外を見た。

「じゃあ、僕じゃなくても同じ?」

「分かりません。他の人と暮らしたことがないので」

高瀬は苦笑した。

「こういう時まで正確ですね」

責められているのかと思ったが、声は穏やかだった。

「僕は、佐和子さんがもう少し普通の生活をしたいのかと思ってました」

その言葉が出た。

佐和子は顔を上げた。

「普通の生活ですか」

「仕事して、一緒にご飯食べて、休日はどこか行ったり。別に結婚じゃなくてもいいけど」

「私は今まで生活していなかったんですか」

高瀬が口を閉じた。

「そういう意味じゃないです」

佐和子は少し笑った。

「みんなそれを言います」

高瀬も笑った。

少しだけ寂しそうだった。

「僕も言いましたね」

「はい」

二人はしばらく何も話さなかった。

以前なら沈黙は楽だった。

その日は少し痛かった。

「佐和子さん」

高瀬が言った。

「たぶん僕、あなたが変わっていくんだと思ってたんですよ」

「どこへ?」

「こっち側に、かな」

「高瀬さんの側?」

「普通の側」

高瀬は自分で言ってから笑った。

「嫌な言い方ですね」

佐和子はコーヒーカップの縁を見た。

「私は、そっちへ行こうとしていたと思います」

「うん」

「でも、場所が合わないみたいです」

高瀬はゆっくり頷いた。

その日、二人は別れた。

喧嘩ではなかった。

高瀬は最後に「会いたくなったら連絡してもいいですか」と聞き、佐和子は「話すことがあるなら」と答えた。

駅へ向かう途中、胸が痛んだ。

高瀬を失いたくなかったのかもしれない。

それでも、一緒に暮らすために自分の生活を作り替えることの方が、もっと怖かった。

帰宅すると、美奈子から母の家に来るよう連絡があった。

母は退院後、少し物忘れが増えていた。

大きな問題ではないが、病院で検査を受けることになったという。

翌日、実家へ行くと、母は台所の引き出しを何度も開けていた。

「何探してるの」

「裁ちばさみ」

母は昔、洋裁をしていた。

佐和子たちが子どもの頃は、服もよく作ってくれた。

「この前片づけた時、美奈子が捨てたんじゃない?」

「捨ててないよ」

美奈子が別室から言った。

三人で探した。

結局、はさみは押し入れの裁縫箱の底から出てきた。

母は受け取った瞬間、「これよ」と笑った。

長い刃には小さな錆があり、持ち手の黒い塗装も剥げていた。

「新しいの買えばいいのに」

美奈子が言った。

「これは手に合うの」

母は何度か開閉した。

その音を聞きながら、佐和子は統合センターの棚を思い出した。

古いから捨てる。

新しい方が便利だから替える。

条件がいい方へ移る。

それは合理的だった。

けれど、人間には「手に合う」という理由もあるらしい。

その夜、佐和子は転職サイトを開いた。

統合センターの委託会社が求人を出していた。

《遺失物仕分け・照会スタッフ》

時給は今の給与から換算すると、月に5万円ほど下がる。

賞与なし。

片道1時間27分。

契約は1年更新。

佐和子は応募ボタンを押した。

第9章 行き先不明

会社へ退職の意思を伝えると、上司は本気で驚いた。「何か不満がありますか」と聞かれ、佐和子は「業務が合いません」と答えた。上司は「評価は高いですよ。もう少し続ければ主任候補にもなれます」と説得した。

「評価が低いから辞めるわけではありません」

「じゃあ、もったいないですよ」

もったいない。

母の裁ちばさみとは逆の意味で使われている気がした。

「何がもったいないですか」

佐和子が聞くと、上司は言葉に詰まった。

「せっかく社員になったのに、という意味です」

「社員をやめることですか」

「そうです」

「分かりました」

上司は困った顔をした。

「分かったなら、考え直しませんか」

「もったいないと思っていることが分かりました」

「御厨さんって、こういう人だったんですね」

少し呆れたように言われた。

佐和子はその言葉が不思議と嫌ではなかった。

こういう人。

自分が何者なのか、他人から形を与えられるのではなく、少しずつ輪郭が見えてきた気がした。

統合センターの採用面接では、24年間の経験が評価された。面接官は「うちとしてはありがたいですけど、本当にいいんですか」と何度も確認した。佐和子は「はい」と答えた。

「給与下がりますよ」

「確認しました」

「正社員じゃなくなります」

「確認しました」

「通勤大変ですよ」

「1時間27分です」

面接官は笑った。

「そこまで計ったんですね」

「はい」

採用はその場でほぼ決まった。

退職までの一ヶ月、佐和子は案内所でいつも通り働いた。辞めると決めたからといって、急に仕事が嫌いになるわけではなかった。乗換案内をし、迷子を保護し、遅延に怒る客へ頭を下げた。

以前より少し楽になった。

この場所へ自分を合わせ続けなくていいと分かったからかもしれない。

最終週、高瀬から一度メッセージが来た。

《転職、決めましたか》

佐和子は《決めました》と返した。

《おめでとうでいいのかな》

少し考え、

《私は嬉しいです》

と送った。

《じゃあ、おめでとう》

返事が来た。

それで十分だった。

美奈子とはまだ少しぎくしゃくしていた。母は「遠いんだから電車で寝過ごさないようにね」と言うだけだった。以前なら母も反対したかもしれないが、最近はあまり「普通」という言葉を使わなくなっていた。

11月1日、佐和子は統合センターで働き始めた。

朝6時35分に家を出る。

電車を3本。

バスを1本。

8時2分に到着。

制服は薄い灰色の作業着だった。

最初に案内されたのは傘の区画だった。

幅の広い棚が何列も続き、一本ずつ管理札がついている。

「今日はここからここまで、入庫処理お願いします」

責任者の女性が言った。

台車には150本近い傘が積まれていた。

佐和子は一番上の一本を手に取った。

黒い長傘。

持ち手は木製。

先端に小さな傷。

内側の骨に白いシール跡。

端末へ入力する。

棚位置が表示される。

「C7-18-042」。

佐和子は札を確認し、指定された場所へ置いた。

次。

透明傘。

持ち手に赤いテープ。

佐和子の手が止まった。

以前案内所で拾った傘かと思った。

管理番号を見る。

違った。

あの傘ではない。

同じように見えるだけだった。

それでも少し笑った。

世の中には、同じに見える物がたくさんある。

よく見れば違う。

午前中だけで82本処理した。

昼休み、同僚の女性が「御厨さん、疲れません?」と聞いた。

「まだ大丈夫です」

「ずっと傘ですよ」

「はい」

「飽きないんですか」

佐和子は少し考えた。

「一本ずつ違います」

女性は笑った。

「そういう人、初めて見ました」

佐和子も笑った。

意識して口角を上げたわけではなかった。

午後、問い合わせが一件入った。

青い子ども用リュック。

恐竜のキーホルダー。

右側のポケットに水筒。

佐和子は検索した。

候補が三つ出た。

棚へ行き、特徴を確認する。

二つ目が一致した。

電話担当へ番号を伝える。

数分後、「持ち主見つかったって」と連絡が来た。

佐和子は棚のリュックを見た。

それだけだった。

客の顔は見えない。

「ありがとう」と言われることもない。

それでも胸の奥が静かに動いた。

以前、男性から「人の大事なものを戻す仕事」と言われたことを思い出した。

自分は戻しているのではないのかもしれない。

ただ、戻れる場所を分かるようにしている。

それだけでいいと思った。

仕事を終え、バス停へ向かった。

空はもう暗かった。

通勤時間は長い。

給料も下がる。

明日の朝も早い。

美奈子なら「だから言ったじゃん」と言うかもしれない。

それでも足は軽かった。

駅へ着くと、ベンチの下に片方だけの緑色の手袋が落ちていた。

佐和子は反射的に拾った。

いつもの癖で、特徴を確認する。

子ども用。

毛糸。

親指の付け根に白い糸が出ている。

その時、前を歩く親子の女の子が片手だけ素手なのに気づいた。

「すみません」

佐和子は声をかけた。

母親が振り返った。

「これ、落としませんでしたか」

女の子が自分の左手を見て、それから手袋を見た。

「あ!」

走って戻ってきた。

「私の!」

佐和子は渡した。

「よかったね」

母親が言った。

女の子は手袋をはめ、佐和子へ頭を下げた。

「ありがとう」

「はい」

親子は歩いていった。

佐和子はその場に少し立っていた。

手袋には番号をつけなかった。

棚にも入れなかった。

それでもちゃんと戻った。

第10章 名前のない場所

統合センターで働き始めて半年が過ぎた。春になり、朝6時35分に家を出ても外が明るくなっていた。通勤時間の長さにも慣れ、乗換駅で買うコーヒーの店まで決まった。

給料は確かに下がった。家計簿を見直し、以前より外食を減らした。高瀬と会わなくなった分、支出も少し減ったが、その計算をすると少し寂しい気持ちになった。

高瀬とは、完全に連絡が切れたわけではなかった。二ヶ月に一度くらい、読んだ本の話や駅で見かけた出来事を送ってくる。佐和子も返事をした。

交際しているのかと聞かれれば、違うと思う。

友達なのかと聞かれれば、たぶんそうなのかもしれない。

名前をつける必要はなかった。

美奈子はしばらく転職のことを言っていたが、最近は諦めたらしい。その代わり、「お姉ちゃん、前より機嫌いいよね」と言うようになった。佐和子は自分が以前どれくらい不機嫌に見えていたのか知らなかった。

母は軽い認知機能の低下があると言われたものの、大きく生活を変えるほどではなかった。美奈子と佐和子が交代で顔を出し、買い物や病院の予定だけ確認している。母は時々同じ話を二度するが、裁ちばさみを使って小さな布袋を縫うことは今もできた。

ある日、母から紺色の巾着袋を渡された。

「何これ」

「仕事で使いなさい」

「何を入れますか」

「知らない。何でもいいわよ」

母は笑った。

佐和子は家へ持ち帰り、仕事用の小さなメモ帳とボールペンを入れた。

翌日、センターで同僚から「かわいい袋ですね」と言われた。

佐和子は「母が作りました」と答えた。

「いいですね」

そう言われた。

佐和子も「はい」と答えた。

その「はい」は、以前より少し柔らかく出た気がした。

仕事には慣れていた。今では新人へ棚の使い方を教えることもある。傘の区画だけでなく、衣類、袋、電子機器の照会も担当した。

ある新人が、黒い財布を持ちながら困っていた。

「御厨さん、これ特徴なさすぎません?」

佐和子は受け取った。

黒い二つ折り財布。

表面にブランドロゴなし。

角に小さな擦れ。

内側の小銭入れのファスナーが銀色。

「十分あります」

佐和子は答えた。

「どこが?」

「全部です」

新人は笑った。

佐和子も少し笑った。

人間も、本当はそうなのかもしれないと思う時がある。

独身。

47歳。

契約社員。

正社員。

恋人あり。

恋人なし。

そういう大きな分類だけで見れば、誰かと同じ箱へ入れられる。

けれど細かく見れば、全部違う。

朝何時に起きると落ち着くのか。

どんな音が苦手なのか。

一人でいることを寂しいと思うのか。

誰かといる方が疲れるのか。

何をしている時に自然に笑うのか。

そうした特徴には、社会がつける分類番号がないだけなのかもしれない。

昼休み、倉庫の外へ出た。

工業団地の端には小さな公園があり、ベンチが三つ置かれている。

佐和子は母にもらった巾着袋から弁当を出した。

隣のベンチでは若い男性社員が妻らしい人と電話しており、向こうでは50代の女性が一人でパンを食べている。

誰が普通なのか、見ただけでは分からなかった。

以前なら、どこかに基準があると思っていた。

正しい年齢。

正しい働き方。

正しい家族。

正しい感情。

それを覚えれば、自分も間違えずに済むと思っていた。

けれど24年間働いた場所が消え、正社員になり、誰かと暮らそうとし、また契約社員へ戻ってみても、結局その基準は一度も見つからなかった。

午後、珍しい問い合わせが来た。

20年以上前に紛失した物についてだった。

「さすがに残ってないですよね」と電話の女性は笑っていた。

父親が昔なくした銀色の万年筆で、最近亡くなったあと、ふと思い出したのだという。

当然、保管期限はとっくに過ぎている。

記録も残っていなかった。

佐和子はそう説明した。

女性は「ですよね」と言った。

声は明るかった。

「変なこと聞いてすみません。父がずっと、あの万年筆どこ行ったかなって言ってたから、最後に一回聞いてみたくなって」

佐和子は受話器を持ったまま少し考えた。

以前なら、「保管されていません」で終えただろう。

「見つからなくて、すみません」

口からその言葉が出た。

女性は少し黙った。

「いえ。聞いてもらえてよかったです」

電話が切れた。

佐和子は端末画面を閉じた。

見つからないものもある。

戻らないものもある。

番号が消えてしまうものもある。

それでも、探したことまでなくなるわけではないらしい。

仕事を終え、いつものバスに乗った。

窓の外を倉庫や工場が流れていく。

途中の駅で人が大勢乗り、車内が混んだ。

佐和子は入口近くに立った。

小学生くらいの男の子が母親と乗ってきた。

男の子はリュックの横ポケットへ青い水筒を入れようとして、何度か落としかけている。

母親が「ちゃんと入れなさい」と言う。

「入ってるよ」

「落とすよ」

「大丈夫」

次の駅で親子は降りた。

電車が動き出した。

佐和子は床に何か光っているのを見つけた。

小さな金属製のキーホルダーだった。

青い恐竜。

おそらく、さっきの男の子のリュックについていたものだ。

佐和子は拾った。

次の駅で降りれば、遺失物として届けられる。

管理番号がつき、棚へ入り、持ち主が探せば戻るかもしれない。

それが正しい手順だった。

窓の外を見ると、さっきの駅のホームがまだ遠くに見えた。

親子は階段へ向かって歩いている。

電車はすでに速度を上げ始めていた。

佐和子は恐竜を掌に置いた。

自分には戻せない。

番号をつけるしかない。

それでも少しだけ笑った。

戻るものもある。

戻らないものもある。

自分で戻るものもあれば、誰かが途中まで運ぶものもある。

次の駅で佐和子は降りた。

改札横の駅員へキーホルダーを渡した。

「前の駅で降りた親子の物だと思います。青い水筒を持った小学生の男の子です」

駅員は特徴を聞き、無線で前駅へ連絡した。

「まだホームにいるかもしれません。確認します」

数分後、返事が来た。

親子はまだ駅構内にいた。

母親がキーホルダーがないことに気づき、探していたという。

「向こうで預かってくれるそうです」

駅員が言った。

佐和子は「ありがとうございます」と答えた。

自分が言われる側ではなく、言う側だった。

改札を出る。

春の夕方だった。

帰宅するには、ここから各駅停車へ乗り換える必要がある。

佐和子はホームへ向かわず、駅前へ出た。

知らない町だった。

小さな商店街があり、八百屋と古い喫茶店が見えた。

時刻は18時21分。

いつもなら18時28分の電車に乗る。

今日は一本遅らせても問題はない。

佐和子は喫茶店へ入った。

一人用の席へ案内された。

窓際だった。

メニューを開く。

コーヒー。

紅茶。

クリームソーダ。

ケーキ。

決まっていない選択肢がいくつも並んでいた。

店員が来た。

「ご注文お決まりですか?」

以前なら、決まってから呼べばいいのにと思ったかもしれない。

佐和子はメニューを見た。

「まだです」

そう答えた。

店員は「ごゆっくりどうぞ」と笑って離れた。

佐和子は窓の外を見た。

駅へ急ぐ人。

自転車を押す高校生。

買い物袋を持った老人。

誰も自分の番号を胸につけてはいなかった。

佐和子にもなかった。

正社員でもなくなった。

誰かの恋人とも呼べない。

母の長女で、美奈子の姉で、遺失物センターの契約社員で、それ以外にも、おそらくいくつかの名前がある。

全部を一つの棚へ入れる必要はない。

佐和子はもう一度メニューを見た。

クリームソーダの写真があった。

緑色だった。

子どもの頃、一度だけ母と喫茶店で飲んだことを思い出した。

甘すぎて、半分残した。

それ以来頼んだことはない。

店員を呼んだ。

「クリームソーダをお願いします」

「はい」

注文が通った。

数分後、背の高いグラスが運ばれてきた。

緑色のソーダの上に白いアイスクリームが浮かび、赤いさくらんぼが一つ載っている。

佐和子はストローをさした。

一口飲む。

やはり甘かった。

少し笑った。

全部飲めなくてもいいと思った。

窓の外では電車が一本、駅を出ていった。

予定していた18時28分の電車だった。

佐和子は追わなかった。

次が来る。

その次もある。

行き先表示を見てから、乗りたいものに乗ればいい。

今はまだ、番号をつけなくてよかった。